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   <title>道路標識</title>
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   <subtitle>標識にもいろいろあります・・・</subtitle>
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   <title>なぜ紙の色は変わる？</title>
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   <published>2012-01-16T08:07:58Z</published>
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   <summary> 紙の種類によってかなりの差がありますが、時間がたつにつれて紙の色が黄色や黄褐色...</summary>
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紙の種類によってかなりの差がありますが、時間がたつにつれて紙の色が黄色や黄褐色に変わるのはなぜでしょう。


これは、日光や熱、空気などの作用によるもので、日光や熱などを遮断して保存すれば、かなり変色を防ぐことができます。


変色が起こるのは、紙の中に含まれているリグニンと結合したリグノ繊維素が、日光によって酸化されて全体が黄褐色に変わってくるのです。


ですから、リグニンなどの不純物の多い新聞用紙の類は変色がいちじるしく、不純物の少ない障子紙などはなかなか色が変わりません。


新聞用紙など値段の安い紙は、木材をドロドロにしたパルプから不純物を除かずに、そのまま作ったものです。


      
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   <title>古い写真が変色するのはなぜ？</title>
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   <published>2011-12-15T08:07:35Z</published>
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   <summary> 古いといっても一年くらいで変色するものと、10年も20年もたって少しずつ色が変...</summary>
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古いといっても一年くらいで変色するものと、10年も20年もたって少しずつ色が変わってくるものでは、その原因がちがいます。


一年くらいで写真の色が黄色っぽく変わるのは、主として定着後の水洗いの不足によるものです。


定着によって銀の塩類が水に溶けやすい物質になり、水洗いによって流されるのですが、水洗いが不十分だとこれが残ってしまい、のちに空気中の酸素によって酸化され、硫黄が分離して、そのため写真全体が黄色っぽく変色します。


十年以上も古い写真が変色するのは、日光や空気中の酸素が少しずつゼラチン膜に作用して、硫酸銀化して退色するためで、ある程度は避けられない現象です。


      
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   <title>密閉された時計になぜゴミが入る？</title>
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   <published>2011-11-06T08:07:11Z</published>
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   <summary>密閉された時計の中にも、いつかゴミが入り、そのため、時には分解掃除が必要なわけで...</summary>
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      密閉された時計の中にも、いつかゴミが入り、そのため、時には分解掃除が必要なわけですが、完全に密閉された時計の中へ、どうしてゴミが入りこむのでしょう。


時計の金属は、気温によって膨張、収縮しますし、中の空気も同じです。


その度に、中の空気はわずかに出入りし、N、Gんなに密閉された時計にもそのくらいの隙間はあり、よす。


空気中には、0.1ミクロン以下という顕微鏡でも見えないような小さなゴミが無数に浮いていて、そのくらい小さくなると、気体の分子とぶつかって、いわゆるブラウン運動を続けているため、いつまでたっても下に落ちることはありません。


永久ゴミといわれるもので、それが空気と一緒に中へ入るのです。


      
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   <title>建築工事</title>
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   <published>2011-10-03T07:42:39Z</published>
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      慶長末年から元和初年にかけて、京都御所ではしばしば作事(建築工事)が繰返され、当然のことながらその中には左官工事も含まれています。


その際の壁に関する検地帳(実地調査書)またはこれに類するものが、現在、少なくとも九通知られています。


そのうち元和五年未12月10日付『禁中女御様所々御作事白土検地帳』では、表書に「さくわん又兵衛」とあるにもかかわらず、奥書では「かべや又兵衛」と記しています。


一方、同年11月23日付『禁中国母様御殿御作事壁検地帳』では奥書に「さくわん又兵衛」の記名があります。


      
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   <title>結婚記録と離婚記録</title>
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   <published>2011-09-21T08:08:45Z</published>
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   <summary>結婚記録と離婚記録から検証することはたやすい。 たとえかなり雑なものであっても、...</summary>
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      <![CDATA[結婚記録と離婚記録から検証することはたやすい。


たとえかなり雑なものであっても、それらは客観的に比較可能な基準を与える。


問題は、結婚パートナーが二つのチャートで矛盾のないふれあいをもてて、離婚したパートナーは矛盾したふれあいをもっているのかということです。


最初の科学的研究は、C・G・ユンクによって行われました。


彼は、相互に合の状態にあるものと相互にオポジションの状態にあるものについて180の既婚カップルの誕生チャートを調べた。


一方のチャートの上界宮、太陽、月または金星と、他方のチャートのそれらとの相が伝統的占星術に一致する傾向にあることを明らかにした。


すなわち、それらは、オポジションより合を形成していました。


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   <title>かべぬり</title>
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   <published>2011-09-17T07:40:53Z</published>
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      寛文六(1666)年開版の『古今夷曲集』に、「題しらず」として、まだうゐの左官がよめの化粧には唐の土をや壁塗にぬると詠まれるに至って、左官という用語が一般社会にも完全に定着したというべきでしょう。


しかしながら、そのような転化が一気におし進められたというわけではなく、一七世紀前半は旧来の壁塗等と新しい左官との呼称が混在した時期です。


『本光国師日記』は「左官助三郎」と記した約半月前の元和元年九月三日条で依然「壁塗」と呼び、また同3年11月16日条でも「かべぬり」といっています。


このような呼称の混乱ぶりは次に見る資料でより明瞭に窺える。


      
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   <title>壁塗り職を意昧している</title>
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   <published>2011-08-07T07:40:28Z</published>
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      『日葡辞書』は、1549年フランシスコ・ザビエルが来日して以来、50余年にわたる宣教師たちの努力の集積によって編纂されたものであって、必ずしも慶長八年の時点での用語がすべて収録されているわけではなかろうが、それでも室町末から桃山初めにかけて、「左官」が壁塗り職の意味に使われていなかったことだけは明らかでしょう。


さて「左官」が壁塗り職の意味で用いられた文献上の初見は、現在知られているかぎり、慶長10(1605)年7月25日付『宇都宮大明神(現、二荒山神社)御建立御勘定目録』の次の記述です。


左官作料永楽三百三十文、但白土紙油共。


白土・紙・油はいずれも奈良時代以来、白璽上塗に必要とされてきた材料であって、ここにいう「左官」が壁塗り職を意昧していることは疑いない。


次に『本光国師日記』元和元(1615)年9月15日条に「左官助三郎上ス」とあるのも比較的早い例でしょう。


降って明暦三(1657)年の幕府による賃銀統制の「触れ」でも「左官」または「上さくわん」と呼ばれていることは第三節に見たとおりです。


      
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   <title>ビタミンC</title>
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   <published>2011-07-23T03:15:25Z</published>
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      <![CDATA[ビタミンCもビタミンEと同じように水の中でできたラジカルや活性酸素を壊すのに機能しています。


いわば、ビタミンCは水の中で、ビタミンEは油の中で似たような機能をもっています。


ただ、ラジカルや活性酸素で壊されやすい成分には油に溶けやすい成分が圧倒的に多いために、ビタミンCよりビタミンEの働きの方が注目されているわけです。


また、動脈硬化も脂肪成分で起きるので、このような見方からもビタミンEと<a href="http://www.healthy-one.co.jp/online_shop/detailsfile/echinacea.html" target="_blank">エキナセア</a>が注目の的になっているのです。


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   <title>壁塗り職</title>
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   <published>2011-07-08T07:40:04Z</published>
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   <summary>『日葡辞書』 この辞書は正しくは「ポルトガル語の説明を付したる日本語辞書」と呼び...</summary>
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      <![CDATA[『日葡辞書』


この辞書は正しくは「ポルトガル語の説明を付したる日本語辞書」と呼び、1603(慶長八)年、日本イエズス会によって刊行され、翌年、補遺の部が追加出版されたもので、当時の日本語の発音をポルトガル語によって示し、かつその意味を解説したものです。


シックイの語は、従来、漢音の「石灰」の託ったものと考えられていたが、この用語の発生については、なお今後の研究を必要としよう)。


ともあれ、<a href="http://www.tosou-navi.jp/" target="_blank">外壁リフォーム</a>関係の用語につきそれぞれ的確に意味を捉えながら、ひとりサカンに関して「壁塗り職」の説明を加えていないことは、この用語に今日いうところの「左官職」の意味はなかったと理解せざるを得ません。

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   <title>モード(´ω｀)　７</title>
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   <published>2011-07-07T08:00:06Z</published>
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      1962年にエドガール・モランはこう書いていました。


《もしもこの大雑誌の中で、同じように女性が男性を圧倒しているとすれぼ、それは、女性が男性読者のための欲望の対象として姿を見せている一方で、女性の読者のためには自己同一視的な主体であるからです。


主体としての女性と、客体としての女性のこのような一致が、女性の顔の持つ支配権を保証しています。》


とにかく『エル』語りでした＾＾

      
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   <title>転化の始まる時期</title>
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   <published>2011-06-20T07:39:13Z</published>
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      <![CDATA[古代における<a href="http://www.tosou-navi.jp/" target="_blank">外壁リフォーム</a>の主要な担い手であった「土工」という職名は律令体制の崩壊に先立って消滅し、代って「壁塗」「壁工」等の名称が現われ、中世を通じてこれらが左官工事担当者の最も一般的な呼称とされてきました。


しかしこれらの中世的な名称も、やがて現在と同じ「左官」という用語の登場に伴って次第に消滅していく。


ここではまずそのような転化の始まる時期について考察することにしたい。


まず慶長初年までに壁塗り職を意味する左官という語は全く用いられていません。


各種資料からも明らかであるが、特に第二節で見た『旧豊田家文書』で慶長13(1608)年ないし元和二(1617)年になお「壁御大工」「かへぬり惣」「京中壁塗」等の中世的名称の用いられていたことに注目しておきたいと思います。

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   <title>モード(´ω｀)　６</title>
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      ピュブリシス世論調査の報告の中で、用いられている用語がこうした現象を明らかにしています。


つまりそこには、《逃避に、恰好の良さと美質を与える美的雰囲気》の問題、《品の悪くない逃避の価値》の問題があるのです。


『エル』誌は上品な見世物となってしまっていました。


この雑誌を読者一般に結びつけていた糸は、見世物的魅惑効果の追求がこの雑誌を、その構成、その記事によって人を圧倒するほどの高みにつりあげてゆけばゆくほど、もろいものとなってしまった。


そうしてまさに、そうしたせりあがりの中で魅力が消えてしまう惧れがあったのです。

      
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   <title>モード(´ω｀)　５</title>
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      動機調査は『エル』誌の根本的な変更に与って力のあったものです。


445人のインタビューと40人にのぼる人々との徹底的な対話から、『エル』誌はその当時、《形態と映像の純粋な美の奇術師》として見られていたことがはっきりした。


インタビューに応じた読者の三分の二が美しいと認めたモデルは、同時にまた冷い、よそよそしい、と見られていました。


このよそよそしさは見事なスタイルで強調されたのです。


『エル』誌とその読者との間のこうした同一視化の困難さが、この時期の特徴的な面の一つです。


つまり、両者を結びつけるつながりは、もはやかつての幸福や豊かさや栄光の世界の磯餓症的自己所有化(有名人の結婚、スターの生活、女流作家の快適な家庭など)ではなかったのです。


そのようなつながり方は、すっかり弱まってしまっていたのです。


夢と逃避が高貴の意味となってしまっていました。

      
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   <title>モード(´ω｀)　４</title>
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      女性の視野は、依然として他者の、つまり男性の視線によって構成されていました。


けれども事態は、あたかもその視野が、見えないものとの限界ぎりぎりのところまで拡がり、あたかも欲望の対象が、単なる物、単なる女性の本質、純粋な形態美でしかないかのように推移していたのです。


したがって『エル』誌の中で、女性の客体化がこの時期ほど推し進められたことはかつてなかった、ということができます。


さらにこの点に関して、1966年にピュブリシス〔広告宣伝社〕が行なった購買動機調査のいくつかの結論をとりあげてみることは、興味のあることでした。

      
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      消費の対象であり主体である『エル』誌の女性は、その木質的使命として、人に気に入られること、人の気をそそることを持っています。


けれども、美の追求から生まれた性的な魅力は、それ自体、ますます発展する抽象化の過程の中では、そうした美の追求によって覆いかくされがちでした。


つまり、問題はもはや社会からの離脱だけではなく、肉体的、実存的な離脱と呼び得るようなことでもあったのです。


女性は、実のところ、欲望の対象でありつづけました。

      
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